鉛筆の生立ち300年|鉛筆の話(参)

鉛筆は手軽に使え、繊細な線描ができ、さらにトーンも出せて、単独で使えることはもちろんのこと、他の素材と組み合わせて使うことができる表現力の豊かな描画材料です。鉛筆が登場する前の時代の線描系の素材といえば、鉛筆とは幾分趣が異なりますが、メタルポイント、木炭、チョーク状のスティック、鷲ペンとインクが挙げられます。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)は、膨大なノートにインクでデッサンやメモを残していますし、アルブレヒト・デューラー(1471~1528)、ハンス・ホルバイン(1497~1543)などもペンを用いた画家でした。レンブラント・ヴァン・レーン(1606~69)の『後ろ姿の裸婦座像』ではペン画に筆を用いトーンが出されています。ペンより繊細な表現となるとシルバーポイントで、ダ・ヴィンチの『古代戦士』やホルバインの『ジェイン・セイモー』などの作品が見受けられます。
鉛筆の起こりは、16世紀中頃にイギリス北西部のカンバーランドのボローデルで純度の高い黒鉛鉱物が発見されたことに始まります。細い棒状にするとものを書く道具になるので、輸出されてヨーロッパ中に広まり、17世紀初め頃には現在のドイツのニュルンベルグに鉛筆職人が登場し、現代の鉛筆の原形が出来上がったのが19世紀中頃で、カンバーランドでの黒鉛発見から実に300年近い年月を要したことになります。
当時のヨーロッパ広域の情勢を駆け足で見てみると次のような時代でした。
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●1500年代:ヨーロッパ各地でキリスト教世界での宗教改革が始まる
●1536年:イングランドがウェールズを併合
●1603年:イングランドとスコットランドが同君連合を形成
●1600年代:イギリスの大航海時代が始まり、インド、北米大陸を植民地化
●1618年~1648年:「30年戦争」《神聖ローマ帝国内の宗教戦争》
●1707年:イギリスのグレートブリテン王国成立
●1756年~1763年:ヨーロッパで始まった「七年戦争」《プロイセン、グレートブリテン王国(イギリス)と、オーストリア、フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦い》
●1775年4月19日から1783年9月3日:「アメリカ独立戦争」《イギリス(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦い》
●1760年代~1830年代:イギリスの産業革命
●1788年~1799年:フランス革命《封建体制に対する市民革命》
●1792年~1802年:フランス革命戦争《革命後のフランスと反革命を標榜する同盟国(イギリスおよびオーストリアを中心としたヨーロッパ列強)との一連の戦い》
●1803年~1815年:「ナポレオン戦争」《ナポレオンのフランス、同盟国とイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどの対仏同盟との戦い》
●1806年:神聖ローマ帝国崩壊
●1815年:ドイツ連邦発足
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鉛筆の生立ちは変革の社会情勢に揉まれた300年間と言えそうです。
大雑把にみると、イギリスは世界へ覇権を拡大、戦争状態でイギリスとフランスとは対立、ヨーロッパの封建的社会体制が崩壊、工業革命で生産構造が変革、というところでしょうか。
黒鉛はイギリスのボローデル近郊で1500年初頭には発見されていたともいわれますが、ボローデル黒鉛は純度が高いため、不純物を取り除く手間がなく、棒状にカットすだけでマーキング用に使え、カットした形状は四角の棒なので当時の黒鉛鉛筆は丸芯でなく四角芯でした。やがて、握った時に手が汚れないように木のカバーのついた完成品が登場し輸出されます。イギリス黒鉛鉛筆はヨーロッパ市場を独占する商品でした。しかし一方で、イギリスでは黒鉛はカノン砲(大砲)の弾丸の鋳型を並べる耐火材として使用され、国にとって最優先の軍事物資でした。そのため、鉱山は王国の管理下に置かれ、採掘量が厳しく制御されました。完成品としての黒鉛鉛筆と原材料としての黒鉛がどの程度輸出されたのかはっきりしませんが、原材料としての輸出は減少して行ったと考えられます。イギリス国王ジョージ2世(治世1727年~1760年)の時代に「窃盗・強盗からの黒鉛鉱山のより効果的な保護の法律」(THE Statutes at Large,From the Twentieth Years of Reign of KING GEORGE the SECOND ---,CAP X,P415)があったところをみると、密輸が横行していたのでしょう。そしてこの時代に、イギリスの黒鉛輸出がストップしたと言われます。
鉛筆職人が登場したニュルンベルグはヨーロッパの中央に位置し交易の拠点として栄えた地域で、14世紀~16世紀前半には神聖ローマ帝国の主要都市として、ヨーロッパの中心的な商工業と交易の都市となりました。神聖ローマ帝国はひとつの統一国家ではなく、長い間に体制が変化しつつも言わば封建領主の連合体で、諸侯の利害のバランスで成り立っており、17世紀前半の1618年~1648年には、宗教戦争を契機として最終的にはヨーロッパの覇権争いとなった「30年戦争」が起こり、周辺地域の荒廃に伴いニュルンベルグの交易は衰弱します。1806年神聖ローマ帝国が崩壊した後フランスに占領され、バイエルン王国に編入されます。
鉛筆作りはここニュルンベルグを中心に発展してゆきます。
1662年、フリードリッヒ・ステッドラー(1636年~)が鉛筆の一貫生産許可をニュルンベルグの評議会に申請しました。当時の職人社会は、鉛筆の芯を加工する職人と木のカバーを加工する職人とに職域がわかれていて、職人達は同業組合を持っていた。これをステッドラーは最初から最後まで一貫作業で作ろうとしたので、当然のことながら同業組合からの反対が出て、申請は職人の職域を侵害するものとして却下された。ところが、どうやら最終的には公認されたようで、ステッドラーは一貫作業での鉛筆作りをすすめ自分の店で販売をした。1675年には鉛筆交易への功績が認められ、市民権を授与されたと言われます。この申請をめぐることがニュルンベルグの市の記録に止められたことで鉛筆職人の存在が歴史に残ったのですが、職人組合との争いの末に製造できたのはどういうことだったのだろうか。新興分野で同業組合もそれほど強く権益を主張できなかったのか、ニュルンベルグ製のマーケットが小さかったのでそれほどの争いにならなかったのか。
1600年代後半には、黒鉛粉末、硫黄、アンティモニーを混合して代替黒鉛芯を作る試みが始まっていたようで、イギリスからの黒鉛の確保が難しくなっていたのかも知れません。
1700年代には、ニュルンベルグ郊外の村、特にシュタインに多くの鉛筆職人が店を構え始めました。この地域はニュルンベルグのような厳格な職人規制の対象地域ではなかったため、競争力の面で優位性がありました。
1761年、カスパー・ファーバー(1730~1784)が、このシュタインで鉛筆の製造を開始しました。後のファーバー・カステル社に発展します。カスパーの事業は順調に拡大し、死後は息子のアントン・ヴィルフェルム・ファーバー(1758~1819)に引き継がれてさらに拡大され、当時としては大規模に成長していた。このことは、ファーバーの製造所が従来型の職人仕事から工場制手工業に移行しており、イギリスの産業革命による産業の近代化の波の中で、来るべき近代化の時代に対応できつつあったということが言えそうです。アントンの事業は、アントンが51歳の時に息子のジョージ・レオナルド・ファーバー(1788~1839)に引き継がれますが、時代的に厳しい時期で、一時的に事業は失速しました。フランス革命戦争・ナポレオン戦争・神聖ローマ帝国崩壊、という動乱の時代でした。
経済封鎖によって外国からの鉛筆の輸入が途絶えることを懸念したフランスは、ジャック・ニコラス・コンテに外国に依存しない鉛筆の開発を命じます。1795年、コンテは黒鉛粉末と粘土を混ぜ焼き固めるという方法を開発し、混合比率を変えることで硬さの異なる芯を作ることができるようになりました。線描ができ、トーンも出せるという鉛筆のダイナミズムが実現されたエポックメイキングな出来事です。この製法は現代の鉛筆芯の基礎となっています。
一方、ニュルンベルグの鉛筆芯はまだ黒鉛粉末、硫黄、アンティモニーを混合するタイプのものだったので、イギリス製黒鉛鉛筆を凌駕することはできなかった。
ジョージ・レオナルド・ファーバーは新しい時代の国際的な視野を得るべく2人の息子を先進都市であるロンドン・パリへ向かわせました。1839年、ジョージの死後、長男のローター・フォン・ファーバー(1817~96)が事業を引き継ぎました。ローターは、生産設備・労働環境の近代化や労働者の社会環境整備を進め、1840年鉛筆全製品に「A.W.FABER」と刻印して鉛筆をブランド化、1849年のニューヨークに続きロンドン・パリと海外支店を開設、1851年に鉛筆の「長さ・太さ・硬度」の世界的基準となった六角形鉛筆を発表、1856年にシベリアの黒鉛鉱山の独占採掘権を獲得、こうしてファーバー社を国際企業へ引き上げました。ファーバー社の良質鉛筆の知名度が上がるにつれて、国内はもとより海外でもファーバー社の模造品が出回るようになり、ローターは1874年、所有権保護の法律可決の嘆願書を出し、翌1875年に発効されました。

こうして、現代の鉛筆のベースが築かれました。

1830年頃から、現在の日本でも売られている様々な鉛筆メーカーがヨーロッパで誕生しますが、それらは主に、それまであった鉛筆工場を買収するというスタイルでした。鉛筆ブランドの系譜が解りづらいのは、買収や輸入代理店の変更があるためです。
1835年 J.S.ステッドラー社《フレードリッヒの子孫ヨハン・セバスチャン・ステッドラーが設立》
1880年 J.S.ステッドラー社の社主は、ステッドラー家からクロイツアー家に変わる
1865年 スワン・スタビロ社《1855年創業のニュルンブルグの鉛筆工場を実業家グスタス・シュヴァンホイザーが買収》
1916年 カンバーランド社《イギリス》
1924年 カランダッシュ社《ジュネーブの鉛筆工場をスイスの企業家アーノルド・シュバイツアーが買収》

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