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江戸園芸ブームと植物画

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園芸の盛んだった江戸時代、その趣向は前半の樹木から後半は草花へと移ってゆきますが、草花で人気どころは、キク・アサガオ・ハナショウブ・フクジュソウ・オモト・マツバランといったところで、どういう訳か、色・形の変わった珍品が好まれる趣向がありました。 キクもアサガオも日本の在来種ではなく、キクは律令国家誕生のころにすでに伝来していたようで、またアサガオは8世紀ごろに薬草として日本にもたらされたといわれ、ともにさまざまな品種が登場してゆきます。 園芸植物としてのアサガオ栽培の第1次ブームは江戸時代の文化文政期1804~1830)、第2次ブームは嘉永安政期(1848~)であったと言われ、突然変異による「変化朝顔」の栽培も盛んであったようです。遺伝学のメンデルの法則が一般に知られるようになる1900年代に先駆けて、種の出来ない変異を持つ変化朝顔の栽培が経験則的に行われていたようです。 当時の浮世絵に花鳥画版画があったところをみると、需要と供給の関係が成り立っていたわけで、花を愛でる文化は庶民に広がっていたと言えそうです。 季節の草花が植木鉢に植えられて縁日で売られている様子が、四季折々の風物詩として浮世絵に描かれていますが、そうした鉢植えが贈り物としても人気があったというのは、人の営みの機微というのは時代を越えていると言えます。 浮世絵の植物画というものもなかなか味があってよい感じで、園芸文化が栄えるとともに絵画文化が栄えたのです。 花鳥画の様な美術絵画的な趣はありませんが、今流にいえば「植物ガイドブック」と言えそうな絵入りの図譜が、様々発刊されています。当時の図鑑挿絵がどんなものであったかというのも興味がわくところですが、当時の人が図譜をコピーしようとすると、方法は書き写し以外に手段はないので、これが繰り返されると、オリジナルと写本とが大きく異なるということも多々あったようです。 菊の図譜としては、『画菊』潤甫〔原画〕元禄4(1691)刊があり、100品の菊が描かれています。手彩色だそうです。 朝顔の図譜としては、第2次ブームの頃に作られた『朝顔三十六花撰』(万花園主人撰・服部雪斎画 嘉永7 (1854) 刊 があり、当時流行った珍品朝顔36品が描かれています。黄色い朝顔のようなので、このページを掲載してみました.。 オモトの図譜としては、『小おもと名寄(こおもとなよせ)』水

チューブ式絵具_ターナーや印象派の時代の油絵具

現代では、油絵具などはチューブに詰められて販売されているので、必要な時に必要な量を絞り出して使うことができて便利です。 このような便利なものが登場したのは、1850年前後で、丁度、屋外でアルラプリマ画法で素早く作品を仕上げるフランス印象派の外光派、例えばモネとかの画家達が活躍し始めた頃で、このチューブ式絵具の登場が、その簡便さとスピーディーさという点で、取り分け屋外制作の外光派の発展には欠かせないものであっただろうと思います。 油に色材を溶かしてものに塗るとが描くとかということは、身近な色材として生活の知恵的に古くから行われていたようですが、当然ながら乾きにくく、油の精製度が悪いと色が不鮮明となります。徐々に改良されながら、より乾きの早いより透明度の高い媒質へ改良されたのが15世紀前半頃で、当時、フランドル地域(現在のオランダ及び周辺)で行われていた油絵が、15世紀中頃にはイタリア、特にベネチアに広がってゆきます。なぜベネチアだったかというと、ベネチアは湿度が高いためフレスコ画が向いておらず、媒質として弾力のある油が大きな作品を描くうえで歓迎されたのです。 こうして、イタリアのベネチア派の画家達が油絵の基礎を作り上げてゆくのですが、制作プロセスというものが明確に確立しておらず、そこにひとつの指標を築いたのが、ルーベンス(1577~1640)であったと言われます。《※今年、「2013年日本でのイタリア年」で「ルーベンス展」が開催されました。》 この時代は、絵具は素材の顔料や油等を自分で練って作るもので、実際に作業をするのは弟子たちとかあるいは専属の職人であったのでしょうが、市販の完成品というものはありませんでした。 「絵具メーカー」というものが登場してくるのは、フランスでは1720年ルフラン社(Lefranc-bourgeois パリ)、イギリスでは1783年ラウニー社(DALER ROWNEY ロンドン)や1832年ニュートン社(Winsor&Newton ロンドン)です。 リーブス社(Reeves and Sons;1776年設立、ロンドン)は1803年に売却されています。ローバーソン社(Charles Roberson and Co ; 1810年設立、ロンドン)は現在もありますが、1970年頃流通会社に売却され、さらに1986年に買収され、現在はメーカ

ターナー展|2013/10/8-12/18|東京都美術館

19世紀のイギリス風景画の代表的な画家であるジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)の展覧会が開催されます。 世界最大のコレクションを誇るロンドンのテート美術館から、油彩画の名品30点以上、水彩画、スケッチブックなど計約110点の展覧です。 [会期] 2013年10月8日(火)~ 12月18日(水) [会場] 東京都美術館 企画棟 企画展示室 [休室日] 月曜日(ただし10月14日、11月4日、12月16日は開室。10月15日、11月5日は閉室) [開室時間] 午前9時30分から午後5時30分まで(入室は午後5時まで) [夜間開室] 毎週金曜日と10月31日、11月2日、11月3日は午前9時30分から午後8時まで(入室は午後7時30分まで) *東京展の後は神戸展へ巡回されます。神戸市立博物館 2014年1月11日-4月6日。 ターナーと言えば、特に晩年の独特の光と大気の描画が印象的です。不透明な下地の上にイエロー系のグラッシュをのせる技法で、何層ものグラッシュで画面の奥行き感を出しています。 ターナーの時代は化学工業が急速に進歩した時代で、クロム系顔料、コールタール系レーキ顔料が開発されました。黄系ではクロムイエロー、カドミウムイエロー、コバルトイエロー、バリウムイエロー、ストロンチウムイエローなど10色前後が現れますが、ターナーのパレットの絵具を見ると、当時利用でき得たすべての「黄色」をテストしていたと言われます。 1800年代初頭の作品の光と大気の幻想的で情緒的な趣向は浪漫主義的ですが、1830年頃の作品になると明るい光と色彩の表現が際立ってきます。この明るい光と色彩の表現は後のフランス印象派のクロード・モネなどに影響を与えたと言われます。 必ずしも安定していたとは言えない当時の絵具や媒質の経年変色とか考えると、当時の輝きとは異なるのでしょうが、それらは差し引きながら、オランダ・フランドル系風景画が育ったイギリスの風景画の変遷を見るのも楽しそうです。

フランス後期印象派と錦絵版画

江戸時代の錦絵版画がヨーロッパの近代絵画の画家達に影響を与えたと言われていますが、さてさて、どこにその絵画的接点があったのか。 18~19世紀のフランスの絵画を中心に美術・技法史を巡ってみることとします。 18世紀後半、フランス革命(1787~99)が勃発。そもそもヨーロッパでは各地で覇権争いやら宗教戦争が続いていましたが、フランス革命は結果的にヨーロッパ全土を巻き込んだ争乱となります。社会情勢の変化に伴って、絵画・建築・彫刻・文学といった芸術分野も様々に変遷してゆきます。 フランス革命以降は、それまで時の権力者である宮廷とか教会の趣向が反映されていた文化が、それらの束縛から解放され、自由な展開が始まり、個人個人の独自性が発現されて行きます。 フランス7月革命(1830年、ブルジョアジー革命)、フランス2月革命(1848年、労働者・農民革命)、イギリスの産業革命、と時代の変革は続きます。 時代の流れは、人権の尊重、自然科学の進歩、機械工学の発展、生産構造の変革などによって、生活や社会構造が近代化に向かいます。 こうした時代のヨーロッパ美術は、フランスとりわけその中心地パリを中心に展開されて行きます。 古典主義の潮流 フランス18世紀末~19世紀初頭 時の政権や社会情勢への不満が高じてくると、昔は良かった的な回顧風潮が出てくるのは常で、折しも18世紀中頃ヨーロッパは、ヘルクラネウム、ポンペイ等のギリシャ・ローマ時代の発掘による古代ブームのなかにあって、王朝趣味的なロココ芸術への反動もあったのか、フランス革命を境に彫刻的な形式美を好む古典主義が流行します。 しかし、その古典主義にルネッサンス時代のような生命力に満ちた創造力があったわけではないので、模倣的古典主義と言った方が適切かも知れません。 今やフランスの観光名所であるパリのシャンゼリゼ通りの西端のシャルル・ド・ゴール広場にあるエトワール凱旋門は、古代ローマ風で当時の古典主義の象徴的な建造物です。 古典主義の代表的な画家ジャック・ルイ・ダヴィット(1748-1825)の「ナポレオンの戴冠式」は、写真などでご覧になったことがあるかと思います。 浪漫主義の潮流 フランス19世紀前半~ 社会の変革は専制政治に対する反旗であって、個々の情熱と感情を自由に発揮できうる社会への変革であったので、新しい時代の中で、民族文化の精神的

錦絵一枚十六文

江戸錦絵版画摺師の最長老であった長尾直太郎さんが今年(2013年)の7月に他界されました。根っからの江戸っ子でその語り口調は軽快で、大正9年(1920年)のお生まれで、この道に入ったのが11歳だそうなので、80有余年現役で歩んで来られたことになります。 江戸時代の版画は浮世絵とか錦絵とか呼ばれますが、浮世絵は黒単色の墨線版画に後から彩色したもので、年代でいえば1765年までで、その後多色摺りが出来るようになって錦絵となり、その最初の絵師が鈴木春信(1725~70年)です。 長尾さんのお話では、1日200枚摺れる様になったら親方なのだそうで、摺ってゆくうちに板も微妙に寸法が狂うのでそれを見極めながら、紙の湿り具合も加減するということなのですが、いやいや多色摺りの200枚というのはこれは大変な数です。 摺り台の机は水平ではなくやや前に傾斜させてあって、その前に湿り具合を調整するために覆いをした紙が置かれていて、糊を敷き、顔料を塗り、紙をのせてバレンでこする。素人目にはバレンを軽く動かしているようにも見えるのですが、熟練の技が素人にそう思わせるだけであって、これは大変な重労働だというのが分かります。 版木で大量に刷れる錦絵になって絵の値段が下がって、寛政の時代(1789~1801年)で、錦絵が一枚十六文で、蕎麦も一杯十六文だったそうなので、庶民にとっては手頃な娯楽品でした。歌麿や葛飾北斎のものはもっと安かったそうです。 こうした錦絵の一部が様々な古紙とともに、海外交易輸出品の陶磁器の割れ防止緩衝材として使われ海外に渡り、ゴッホ(1853-90年)、モネ(1840-1926年)、ゴーギャン(1848-1903年)といった画家に影響を与えることになります。 明治になると錦絵の国内需要が減り、反面海外需要は高まって、いい作品が海外に流出してしまったそうで、長尾さんのお話では、ボストン美術館が8万枚、メトロポリタン美術館が6万枚、シカゴの博物館が6万枚、イギリスの美術館が4万枚程収蔵しているそうです。 江戸時代に庶民の娯楽だった錦絵が、西洋文明に傾倒してしまった明治という時代に海外へ流出し、いまや蕎麦一杯の値段で買えない押しも押されぬ芸術品になってしまいましたが、江戸時代の錦絵を語る視点は、「錦絵一枚十六文」というのが良さそうです。

鎖国時代の瀬戸内

2013年瀬戸内トリエンナーレ夏会期は、国内はもとより国際的な交流も活況な様です。 瀬戸内の開放的な空間が舞台なので、その進行は何かと天候に左右されやすく、このトリエンナーレならではの自然との共存と言えそうですが、今年のように日差しやら集中豪雨やらも度を超すと、これは困りものです。 瀬戸内地域は古代の律令国家の時代からすでに要衝の地で、その歴史は多岐に渡りますが、山間部・河川・沿岸部・陸路・海路の総合的な開発・発展を遂げたのは江戸時代で、豊臣秀吉は海賊禁止令を出して海路掌握を進め、これは基本的に江戸幕府にも受け継がれます。 江戸時代、民間レベルでの海外との交流は禁止されていたものの、幕府は特定国との国交を継続したので、江戸時代=鎖国=海外との交流のない時代、というイメージと実体とは異なります。 ヨーロッパとの窓口はそれまでのイスパニア・ポルトガルに代わってオランダのみとなりましたが、日本の資源や物品・美術・文化が海外へ渡るとともに、海外からは様々な物品・美術・文化が日本に入ってきました。 現代ではトリエンナーレのようなイベントには、思い立てば自由気ままに旅行に出かけられますが、江戸時代は基本的にはそういう自由はなく、民衆の行動範囲は日帰りが可能な範囲内に限られていて、中後期になって経済が発展し平和な時代が続く様になって、徐々に規制も緩和されて、社寺参拝という大義名分的なレジャー旅が一般化します。当時の西日本での人気スポットは、四国八十八か所・京都・奈良・伊勢・金毘羅・出雲大社といったところでしたから、人々は瀬戸内を往来したことでしょう。 江戸時代の瀬戸内に関わる国際交流の国家行事は朝鮮使節団の来日で、1607年から1811年まで12回派遣され、11回瀬戸内を通航しています。 使節団の接待は各地の大名に命じられ、長州藩・広島藩・福山藩・岡山藩が順次その間の航路案内・警備・宿泊施設の提供・食事や水の提供・三使(正使・副使・従事官)への饗応などを受け持ちました。 使節団の人数は400~500名で、三使や上上官などの接待の施設や食事の様子を見ると、各藩の財政負担は莫大であっただろうことがうかがえます。使節団のほかに、朝鮮国との外交窓口であった対馬藩の関係者1,500人程が同行したため、総勢で2,000人近い人数でした。 水先案内の船、連絡用の早船、水・食料を運ぶ船、ひき舟な

人物画と肖像画

2013年NHKの趣味Do楽「城戸真亜子の油絵って楽しい!」もシリーズ8回が終わって、次回7月29日は第9回総集編となります。短い放送時間ですが、様々なモチーフへのアプローチの雰囲気をつかむことが出来得るというのは映像ならではで、そこらあたりをポイントに総集編をご覧になられたらと思います。 第6回の『ポートレイト(肖像画)で遊ぼう』の中で、ポートレートはモデルさんと似てなくても良いんです、という話があって、それも確かに一理あるのですが、『人物画』は似てなくてもよいけれど『肖像画』は似ていないといけないのです。 私はあるブロンズ像のことを思い出しました。 私が昔勤めていた会社では様々な事業を展開していて、中核事業ではないサブ事業のひとつにブロンズ像の製作というものがありました。全国の画材額縁店さんを代理店としてブロンズ像の製作を一式請け負うのですが、サブ事業の多くは私のマーケティング・企画部門が担当となっていて、ご注文は中核事業の営業部門経由なのですが、この事業も実務処理は私のところが担当でした。手順は、写真(できるだけ多くのもの)をご提供頂き、それを元に粘土で原型像を制作し、その原型像をご依頼者の方に実地ご確認頂いてのち、ブロンズ鋳造し、ご指定場所にお届けする、というものです。 関西の方から、神主さんが急逝して関係者で顕彰碑としてのブロンズ像を建てようということになった、というお話があって、最終的に胸像をお造りすることになりました。 粘土原型像が出来上がって、遠路ながら富山の原型師さんの工房で原型像実地確認という段取りとなり、ご依頼者の代表として男性2名、女性1名の3名がお越しになって、工房にご案内しました。天井の高い閑静な工房の一画に粘土原型像がひっそりと置かれていたのですが、原型像と対面するや女性の方が「先生がいる」と泣き始めてしまいました。男性の方々も近くに寄ってしばし言葉なしの状態でした。ご提供いただいた写真はいろいろな表情が写っていましたが、写真でしか知らない私の印象は、これがご本人なら写真を取ると確かにご提供の写真のいろいろな表情になりそうだ、というものでした。修正が必要な場合この場で修正を行うのですが、女性の方が迷いながらも「もう少しほほがふっくらしてたかな」とお話になって、少し間をおいておもむろに原型師さんが粘土を小豆ほどの大きさに丸め、ほほにあてて

江戸のガーデニング

花の開花を楽しむ、例えば、「・・・花博」とか「・・・花園」に出かけるというのが現代ではポピュラーなレジャーという感じで、ガーデニングも人気があるようですが、150年前の江戸でも似たような状況だったらしく、その様子が版画などに残っています。江戸時代後期の園芸レベルは世界的にもなかなかのものだったようで、イギリスのロバート・フォーチュンの本に、その頃の江戸の様子が記述されています。 こうした江戸の園芸にスポットをあてた展覧会「花開く江戸の園芸」が江戸東京博物館で始まります。 会期:2013年7月30日---9月1日    http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/exhibition/special/2013/07/index.html ※江戸東京博物館は、2013年3月28日で開館20周年で、それを記念して『「花開く 江戸の園芸」展では、会期中、年齢を証明できるものをご提示いただいた20歳の方(1992年7月1日~1994年4月1日生まれの方)は、20円で「花開く 江戸の園芸」展と常設展の両方をご覧いただけます。20歳の記念に江戸東京博物館をまるごとお楽しみください! 』ということだそうです。 ロバート・フォーチュンはイギリスの植物学者で、プラントハンターとして、政府の仕事で中国から植物をヨーロッパにもたらし、また、東インド会社の仕事では中国の茶樹をインドへ移入し、インドの茶産業に寄与した人です。 海外の資源・産物を積極的に自国に取り込んで行くという姿勢は、さすがヨーロッパ列強国という感じです。 フォーチュンは横浜開港の翌年の1860年10月~12月と1861年4月~8月の2回来日し、主に関東地域の農作物・草花・樹・物産について調べ、様々な植物を買い入れて本国に送っています。1863年に旅行記「YEDO AND PEKING. A NARRATIVE OF A JOURNEY TO THE CAPITALS Of JAPAN AND CHINA. 」を出版しています。全402ページの内、日本関連は304ページまで。(※原文では、横浜=Yokuhama 江戸=Yedo) ・・・・・・・・・・ 旅行記の記事ピックアップをしてみます。 ◎『驚くべきことに、江戸の郊外には、植物を販売用に栽培している農園(植木屋)がいくつもある。江戸の良識ある人々は、

鉛筆のある風景_養命酒とマルカン酢

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写真の鉛筆は昭和35年前後のものと思いますが、商品を買ったときにおまけで付いてくる、今流に言うとノベルティグッズです。 筆記具ノベルティーなら、今の時代だとカラフルなボールペンというあたりに落ち着きそうですが、こうしてみると当時は、鉛筆が一般筆記用具としてのトップの座を担っていたということを改めて思います。 テレビはオール生放送で、昭和36年(1961年)にはNHKの「夢で逢いましょう」という番組で坂本九の『上を向いて歩こう』が初登場した、という時代です。「ボールペン」というものが世の中に出始めた頃です。 手前の鉛筆は養命酒製造株式会社のもので、「養命酒飲んで輝く不老長寿 養命酒製造株式会社」と印字されてます。コマーシャルは概ね時代のキーワードに呼応した内容になるので、『不老長寿』という言葉は、なんとも神秘的な言い回しです。この会社の最近のTVコマーシャルを改めてざっと見てみると、キーワードは「疲れ」・「体調不良」といったもののようで、コマーシャルは健康指向型になっていて、時代の移り変わりを感じます。 養命酒は400年の歴史があるそうで、その歴史の中でどのように時代に呼応して来たのか興味が湧くところです。 http://www.yomeishu.co.jp/health/beginning/index.html   奥の鉛筆はマルカン酢のもので、「丸勘印、マルカン酢の文字、その下側には瓶の絵柄」が印字されていて、反対側面(写真なし)には、「リンゴ酢・サラダ油・ぽん酢」とあります。鉛筆軸は六角形ではなく丸形です。「丸勘印」というのは、江戸時代の当主であった酢屋勘三郎の「勘」を崩した丸印で、今でいうブランドマークです。酢屋勘三郎は他の酢屋との差別化のために自分の店の樽にこの丸勘印を付けたところ、他の店も真似をして同じ丸勘印を付けたそうで、なんとも江戸時代らしい無法な話です。 マルカン酢は360年の歴史があるそうです。 http://www.marukan.com/history/index.html

鉛筆黒鉛の故郷-Around Borrowdale / Cumberland Pencil Company

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イギリスのカンブリア州ボローデル(BORROWDALE)の山並みに沿うように延びるB5289道に位置するシートラー(SEATOLLER)から、山の谷方向へ南西に延びる脇道に入ると、川沿いに道が続き、建物は点々とある程度で、しばらくすると周囲を小高い山並に囲まれた羊の放牧地が広がり、5~6分で行き止まりとなります。 イギリス_カンブリア州_ボローデル_セスウエイト(SEATHWAITE)、その山並のグレイノッツ(GREY KNOTTS)から下降した谷沿い一帯、そこが鉛筆用黒鉛出現の大地です。 今は、トレッキングで鉱山跡を巡ることがことが可能な様にルートが整備されていて、この地域を含めた広域の湖水地域がレイクディストリクト国立公園(LAKE DISTRICT NATIONAL PARK)に指定されており、トレッキング、キャンプ、コテージステイ、湖畔のホテルステイなど人気のある観光地です。道沿いに車を気ままに停めて、トレッキングをする、そんなスタイルです。黒鉛鉱山ではありませんが、シートラー(SEATOLLER)からB5289道を西方向に進んだところにあるホニスター(HONISTER)には見学コースのあるスレート鉱山があります。 湖と河川の多いこの一帯は古くから観光地であった様で、1830年イギリスで発行された『 A concise description of the English lakes and adjacent mountains 』には、見所や楽しみ方などが紹介されており、今で言う観光ガイドブック風で、その最後のページに、ボローデルの黒鉛鉱山も出てきます。 セスウエイト(SEATHWAITE)から13kmほど北に位置するケスウイック(KESWICK)に、1832年にイギリス初の鉛筆工場が誕生し、その後鉛筆の町として有名になりますが、地場産業ということで採掘された黒鉛の塊がストレートにこのケスウイック(KESWICK)に運ばれたと思っていたら、月に一度ロンドンで開かれる市で購入するという仕組みだったらしく、何とも複雑な、地場産業振興などとは程遠い話です。 1851年のケスウイック(KESWICK)の記録では、鉛筆工場が4社となっていますが、1832年に創業した鉛筆工場は、経営者が転々としたのち、1916年カンバーランド鉛筆会社(Cumberland Penci

鉛筆の生立ち300年|鉛筆の話(参)

鉛筆は手軽に使え、繊細な線描ができ、さらにトーンも出せて、単独で使えることはもちろんのこと、他の素材と組み合わせて使うことができる表現力の豊かな描画材料です。鉛筆が登場する前の時代の線描系の素材といえば、鉛筆とは幾分趣が異なりますが、メタルポイント、木炭、チョーク状のスティック、鷲ペンとインクが挙げられます。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519)は、膨大なノートにインクでデッサンやメモを残していますし、アルブレヒト・デューラー(1471~1528)、ハンス・ホルバイン(1497~1543)などもペンを用いた画家でした。レンブラント・ヴァン・レーン(1606~69)の『後ろ姿の裸婦座像』ではペン画に筆を用いトーンが出されています。ペンより繊細な表現となるとシルバーポイントで、ダ・ヴィンチの『古代戦士』やホルバインの『ジェイン・セイモー』などの作品が見受けられます。 鉛筆の起こりは、16世紀中頃にイギリス北西部のカンバーランドのボローデルで純度の高い黒鉛鉱物が発見されたことに始まります。細い棒状にするとものを書く道具になるので、輸出されてヨーロッパ中に広まり、17世紀初め頃には現在のドイツのニュルンベルグに鉛筆職人が登場し、現代の鉛筆の原形が出来上がったのが19世紀中頃で、カンバーランドでの黒鉛発見から実に300年近い年月を要したことになります。 当時のヨーロッパ広域の情勢を駆け足で見てみると次のような時代でした。 ・・・・・・・・・ ●1500年代:ヨーロッパ各地でキリスト教世界での宗教改革が始まる ●1536年:イングランドがウェールズを併合 ●1603年:イングランドとスコットランドが同君連合を形成 ●1600年代:イギリスの大航海時代が始まり、インド、北米大陸を植民地化 ●1618年~1648年:「30年戦争」《神聖ローマ帝国内の宗教戦争》 ●1707年:イギリスのグレートブリテン王国成立 ●1756年~1763年:ヨーロッパで始まった「七年戦争」《プロイセン、グレートブリテン王国(イギリス)と、オーストリア、フランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦い》 ●1775年4月19日から1783年9月3日:「アメリカ独立戦争」《イギリス(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦い》 ●1760年代~1830年代:イギリスの