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チューブ式絵具_ターナーや印象派の時代の油絵具

現代では、油絵具などはチューブに詰められて販売されているので、必要な時に必要な量を絞り出して使うことができて便利です。 このような便利なものが登場したのは、1850年前後で、丁度、屋外でアルラプリマ画法で素早く作品を仕上げるフランス印象派の外光派、例えばモネとかの画家達が活躍し始めた頃で、このチューブ式絵具の登場が、その簡便さとスピーディーさという点で、取り分け屋外制作の外光派の発展には欠かせないものであっただろうと思います。 油に色材を溶かしてものに塗るとが描くとかということは、身近な色材として生活の知恵的に古くから行われていたようですが、当然ながら乾きにくく、油の精製度が悪いと色が不鮮明となります。徐々に改良されながら、より乾きの早いより透明度の高い媒質へ改良されたのが15世紀前半頃で、当時、フランドル地域(現在のオランダ及び周辺)で行われていた油絵が、15世紀中頃にはイタリア、特にベネチアに広がってゆきます。なぜベネチアだったかというと、ベネチアは湿度が高いためフレスコ画が向いておらず、媒質として弾力のある油が大きな作品を描くうえで歓迎されたのです。 こうして、イタリアのベネチア派の画家達が油絵の基礎を作り上げてゆくのですが、制作プロセスというものが明確に確立しておらず、そこにひとつの指標を築いたのが、ルーベンス(1577~1640)であったと言われます。《※今年、「2013年日本でのイタリア年」で「ルーベンス展」が開催されました。》 この時代は、絵具は素材の顔料や油等を自分で練って作るもので、実際に作業をするのは弟子たちとかあるいは専属の職人であったのでしょうが、市販の完成品というものはありませんでした。 「絵具メーカー」というものが登場してくるのは、フランスでは1720年ルフラン社(Lefranc-bourgeois パリ)、イギリスでは1783年ラウニー社(DALER ROWNEY ロンドン)や1832年ニュートン社(Winsor&Newton ロンドン)です。 リーブス社(Reeves and Sons;1776年設立、ロンドン)は1803年に売却されています。ローバーソン社(Charles Roberson and Co ; 1810年設立、ロンドン)は現在もありますが、1970年頃流通会社に売却され、さらに1986年に買収され、現在はメーカ

ターナー展|2013/10/8-12/18|東京都美術館

19世紀のイギリス風景画の代表的な画家であるジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(1775-1851)の展覧会が開催されます。 世界最大のコレクションを誇るロンドンのテート美術館から、油彩画の名品30点以上、水彩画、スケッチブックなど計約110点の展覧です。 [会期] 2013年10月8日(火)~ 12月18日(水) [会場] 東京都美術館 企画棟 企画展示室 [休室日] 月曜日(ただし10月14日、11月4日、12月16日は開室。10月15日、11月5日は閉室) [開室時間] 午前9時30分から午後5時30分まで(入室は午後5時まで) [夜間開室] 毎週金曜日と10月31日、11月2日、11月3日は午前9時30分から午後8時まで(入室は午後7時30分まで) *東京展の後は神戸展へ巡回されます。神戸市立博物館 2014年1月11日-4月6日。 ターナーと言えば、特に晩年の独特の光と大気の描画が印象的です。不透明な下地の上にイエロー系のグラッシュをのせる技法で、何層ものグラッシュで画面の奥行き感を出しています。 ターナーの時代は化学工業が急速に進歩した時代で、クロム系顔料、コールタール系レーキ顔料が開発されました。黄系ではクロムイエロー、カドミウムイエロー、コバルトイエロー、バリウムイエロー、ストロンチウムイエローなど10色前後が現れますが、ターナーのパレットの絵具を見ると、当時利用でき得たすべての「黄色」をテストしていたと言われます。 1800年代初頭の作品の光と大気の幻想的で情緒的な趣向は浪漫主義的ですが、1830年頃の作品になると明るい光と色彩の表現が際立ってきます。この明るい光と色彩の表現は後のフランス印象派のクロード・モネなどに影響を与えたと言われます。 必ずしも安定していたとは言えない当時の絵具や媒質の経年変色とか考えると、当時の輝きとは異なるのでしょうが、それらは差し引きながら、オランダ・フランドル系風景画が育ったイギリスの風景画の変遷を見るのも楽しそうです。

フランス後期印象派と錦絵版画

江戸時代の錦絵版画がヨーロッパの近代絵画の画家達に影響を与えたと言われていますが、さてさて、どこにその絵画的接点があったのか。 18~19世紀のフランスの絵画を中心に美術・技法史を巡ってみることとします。 18世紀後半、フランス革命(1787~99)が勃発。そもそもヨーロッパでは各地で覇権争いやら宗教戦争が続いていましたが、フランス革命は結果的にヨーロッパ全土を巻き込んだ争乱となります。社会情勢の変化に伴って、絵画・建築・彫刻・文学といった芸術分野も様々に変遷してゆきます。 フランス革命以降は、それまで時の権力者である宮廷とか教会の趣向が反映されていた文化が、それらの束縛から解放され、自由な展開が始まり、個人個人の独自性が発現されて行きます。 フランス7月革命(1830年、ブルジョアジー革命)、フランス2月革命(1848年、労働者・農民革命)、イギリスの産業革命、と時代の変革は続きます。 時代の流れは、人権の尊重、自然科学の進歩、機械工学の発展、生産構造の変革などによって、生活や社会構造が近代化に向かいます。 こうした時代のヨーロッパ美術は、フランスとりわけその中心地パリを中心に展開されて行きます。 古典主義の潮流 フランス18世紀末~19世紀初頭 時の政権や社会情勢への不満が高じてくると、昔は良かった的な回顧風潮が出てくるのは常で、折しも18世紀中頃ヨーロッパは、ヘルクラネウム、ポンペイ等のギリシャ・ローマ時代の発掘による古代ブームのなかにあって、王朝趣味的なロココ芸術への反動もあったのか、フランス革命を境に彫刻的な形式美を好む古典主義が流行します。 しかし、その古典主義にルネッサンス時代のような生命力に満ちた創造力があったわけではないので、模倣的古典主義と言った方が適切かも知れません。 今やフランスの観光名所であるパリのシャンゼリゼ通りの西端のシャルル・ド・ゴール広場にあるエトワール凱旋門は、古代ローマ風で当時の古典主義の象徴的な建造物です。 古典主義の代表的な画家ジャック・ルイ・ダヴィット(1748-1825)の「ナポレオンの戴冠式」は、写真などでご覧になったことがあるかと思います。 浪漫主義の潮流 フランス19世紀前半~ 社会の変革は専制政治に対する反旗であって、個々の情熱と感情を自由に発揮できうる社会への変革であったので、新しい時代の中で、民族文化の精神的

錦絵一枚十六文

江戸錦絵版画摺師の最長老であった長尾直太郎さんが今年(2013年)の7月に他界されました。根っからの江戸っ子でその語り口調は軽快で、大正9年(1920年)のお生まれで、この道に入ったのが11歳だそうなので、80有余年現役で歩んで来られたことになります。 江戸時代の版画は浮世絵とか錦絵とか呼ばれますが、浮世絵は黒単色の墨線版画に後から彩色したもので、年代でいえば1765年までで、その後多色摺りが出来るようになって錦絵となり、その最初の絵師が鈴木春信(1725~70年)です。 長尾さんのお話では、1日200枚摺れる様になったら親方なのだそうで、摺ってゆくうちに板も微妙に寸法が狂うのでそれを見極めながら、紙の湿り具合も加減するということなのですが、いやいや多色摺りの200枚というのはこれは大変な数です。 摺り台の机は水平ではなくやや前に傾斜させてあって、その前に湿り具合を調整するために覆いをした紙が置かれていて、糊を敷き、顔料を塗り、紙をのせてバレンでこする。素人目にはバレンを軽く動かしているようにも見えるのですが、熟練の技が素人にそう思わせるだけであって、これは大変な重労働だというのが分かります。 版木で大量に刷れる錦絵になって絵の値段が下がって、寛政の時代(1789~1801年)で、錦絵が一枚十六文で、蕎麦も一杯十六文だったそうなので、庶民にとっては手頃な娯楽品でした。歌麿や葛飾北斎のものはもっと安かったそうです。 こうした錦絵の一部が様々な古紙とともに、海外交易輸出品の陶磁器の割れ防止緩衝材として使われ海外に渡り、ゴッホ(1853-90年)、モネ(1840-1926年)、ゴーギャン(1848-1903年)といった画家に影響を与えることになります。 明治になると錦絵の国内需要が減り、反面海外需要は高まって、いい作品が海外に流出してしまったそうで、長尾さんのお話では、ボストン美術館が8万枚、メトロポリタン美術館が6万枚、シカゴの博物館が6万枚、イギリスの美術館が4万枚程収蔵しているそうです。 江戸時代に庶民の娯楽だった錦絵が、西洋文明に傾倒してしまった明治という時代に海外へ流出し、いまや蕎麦一杯の値段で買えない押しも押されぬ芸術品になってしまいましたが、江戸時代の錦絵を語る視点は、「錦絵一枚十六文」というのが良さそうです。