フランス後期印象派と錦絵版画

江戸時代の錦絵版画がヨーロッパの近代絵画の画家達に影響を与えたと言われていますが、さてさて、どこにその絵画的接点があったのか。
18~19世紀のフランスの絵画を中心に美術・技法史を巡ってみることとします。
18世紀後半、フランス革命(1787~99)が勃発。そもそもヨーロッパでは各地で覇権争いやら宗教戦争が続いていましたが、フランス革命は結果的にヨーロッパ全土を巻き込んだ争乱となります。社会情勢の変化に伴って、絵画・建築・彫刻・文学といった芸術分野も様々に変遷してゆきます。
フランス革命以降は、それまで時の権力者である宮廷とか教会の趣向が反映されていた文化が、それらの束縛から解放され、自由な展開が始まり、個人個人の独自性が発現されて行きます。
フランス7月革命(1830年、ブルジョアジー革命)、フランス2月革命(1848年、労働者・農民革命)、イギリスの産業革命、と時代の変革は続きます。
時代の流れは、人権の尊重、自然科学の進歩、機械工学の発展、生産構造の変革などによって、生活や社会構造が近代化に向かいます。
こうした時代のヨーロッパ美術は、フランスとりわけその中心地パリを中心に展開されて行きます。

古典主義の潮流 フランス18世紀末~19世紀初頭
時の政権や社会情勢への不満が高じてくると、昔は良かった的な回顧風潮が出てくるのは常で、折しも18世紀中頃ヨーロッパは、ヘルクラネウム、ポンペイ等のギリシャ・ローマ時代の発掘による古代ブームのなかにあって、王朝趣味的なロココ芸術への反動もあったのか、フランス革命を境に彫刻的な形式美を好む古典主義が流行します。
しかし、その古典主義にルネッサンス時代のような生命力に満ちた創造力があったわけではないので、模倣的古典主義と言った方が適切かも知れません。
今やフランスの観光名所であるパリのシャンゼリゼ通りの西端のシャルル・ド・ゴール広場にあるエトワール凱旋門は、古代ローマ風で当時の古典主義の象徴的な建造物です。
古典主義の代表的な画家ジャック・ルイ・ダヴィット(1748-1825)の「ナポレオンの戴冠式」は、写真などでご覧になったことがあるかと思います。

浪漫主義の潮流 フランス19世紀前半~
社会の変革は専制政治に対する反旗であって、個々の情熱と感情を自由に発揮できうる社会への変革であったので、新しい時代の中で、民族文化の精神的母胎である中世のキリスト教精神の望郷的賛美、あるいはその文物の再構築、想像的な情緒趣味、という文化的潮流が自然の流れとして現れてきます。こうした趣向は浪漫主義と呼ばれていますが、文学・絵画・建築・彫刻といったすべての分野で現れます。
模倣的な古典主義が画一的なパターン化された形式美に終始し、人間的な生々しさや躍動感に欠けているのに対し、浪漫主義絵画では、画一的な形式に囚われず、躍動感・強烈な色彩・情緒的な表現が現れます。
浪漫主義の代表的な画家ウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)の『民衆を率いる自由の女神』は、フランス7月革命が題材です。
また、最近映画でも話題になった『レ・ミゼラブル』もフランス7月革命の頃の物語で、オリジナルはヴィクトル・ユーゴの浪漫主義小説です。
19世紀初頭のフランスは古典派と浪漫派が共存した時代です。

自然主義(ハルビゾン派)の潮流 フランス19世紀前半~
北欧オランダ・フランドルの風景画が育ったイギリスでは、時代の変革の中で、光と大気に溢れた自然の豊かさを描いた新しい感覚の風景画が現れてきます。こうしたイギリスの風景画の影響を受けた、浪漫主義的な風景画の趣向がフランスに現れ、自然主義と呼ばれます。パリ郊外のハルビゾンに生活し、制作を行ったジャン=バティスト・カミーユ・コロー(1796-1875)、ジャン=フランソワ・ミレー(1814-75)らの画家達です。
ミレーの「晩鐘」とか「種まく人」とか、写真などでご覧になったことがあるかと思います。ミレーの「種まく人」を始めハルビゾン派の作品は山梨県立美術館で見ることができます。
イギリス風景画の代表的な画家はウィリアム・ターナー(1775-1851)で、輝かしい光と大気を描きこんでおり、後の印象派へ影響を与えます。

写実主義の潮流 フランス19世紀中頃~
フランス2月革命(1848年、労働者・農民革命)が起り、ますます社会は変革して行きます。これまで絵画の題材の対象にならなかった労働者や民衆、風景を、形式的でもなく、装飾的でもなく、理想化するでもなく、ありのまま忠実に描こうとする趣向が出てきます。多かれ少なかれ浪漫的な装飾が見られる自然主義の風景画に比べ、より現実的アプローチです。
代表的な画家はギュスターヴ・クールベ(1819-77)で、労働者や民衆、風景を現実的な視点で描いています。

こうして見ると、宮廷や貴族などの束縛から解き放たれて、自分の描きたいものを自由に描く、自分の日常の生活やまわりの自然に美しさを見出すという人間精神の発展という点で、画家の立ち位置が変わってきた事が解かります。
しかし、例えばクールべのその技法となると従来の延長線上にあって、「何を描くか」という点では進展していても、見えた通り、あるいは感じた通りに「如何に描くか」は進展しておらず、物の形状を現わす手法は明暗による陰影法であり、色は原色のまま使うことは品位のないことで、色の接点には中間色(ハーフトーン)を置く、要するに、現実の色や明るさや輝きとは異なる、言わば、現実味のない鈍く暗い画面でした。

印象派の兆し フランス1863~ エドアード・マネ(1832-83)
画壇に物議をかもしだしたマネの「草上の朝餐」「オランピア」は、中間色(ハーフトーン)を無視又は制御した強く明るい色彩、筆のタッチを残した躍動感のある描画、また、種々の白の描き分け、白と黒の対比で描かれ、従来の手法を覆すものでした。
こうしたマネのアプローチが印象派誕生につながって行きます。
マネのこの2点の作品は娼婦裸婦像で、当時では不自然な設定と娼婦を題材にしたことで社会的な反感を受けてしまったということでよく取り上げられますので、テレビとかでご覧になったことがあるかと思いますが、本当の掟破りは描画技法自体にあったのです。

印象派の潮流 フランス19世紀後半
マネによって示された明るい絵画の世界に触発されて、実際の色のその光の輝きや色の明るさを見えた通り描こうとする趣向が現れます。
木々の緑は葉一枚一枚がさらに一枚の中でも部分によって微妙に色が異なる。さらに、光の当たり具合によって、その色調や見え方が変化し、全体として木々の緑として見えている。それは木々の緑に限らず、赤い屋根であっても同じで、屋根の部分部分の色は微妙に異なっていても、全体として赤い屋根として見えている。目に映るありのままの現象は、色の断片による画面で構成される。こうしたアプローチから展開されたのが、印象派と呼ばれる潮流です。
描画の技法を大雑把に簡単に言えば、下絵を描かず、視覚印象を元に、パレットで絵具を混ぜずに画面に直接手早くのせてゆく、というもので、少し専門的に言うと、透明と不透明の絵具にグラッシュとボカシを織り交ぜた画面に不透明な色のベタ塗りを重ねる、というものです。
代表的な画家は、クロード・モネ(1840-1926)、カミール・ピサロ(1831-1903)、アルフレッド・シスレー(1839-99)、アウグスト・ルノアール(1841-1919)、エドガー・ドガ(1934-1917)などです。
日本でも人気のクロード・モネは、マネの光の明るさと輝きに感化され、さらに、イギリスのターナー等の鮮烈な光の描写に接して、自然の外光描写を指向して行きます。

後期印象派の潮流 フランス19世紀後期
印象派では光と色の表現に主体が置かれたため、往々にして外見の表現に終始し、そのものの内面的な本質の形へのアプローチは希薄な傾向がありました。
リンゴは光の当たり方によって見え方は異なる一方で、光がどうであれリンゴはリンゴであるから常に変わらない本質としての形と色があって、その常に変わらぬ本質を捕えて描くことが大切である、という趣向が印象派の中から起ります。この流れは、後期印象派と呼ばれます。
代表的な画家は、ポール・セザンヌ(1839-1906)、 ポール・ゴーギャン(1849-1903)、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853-90)などです。
後期印象派の画家達は今や誰もが知る名前ですが、称賛され高く評価されたのは没後であったというのは、無情な話です。印象派といっても個々で見ればそれぞれ独自の趣向・発展があるのですが、フランス印象派のアプローチは、19世紀後半のヨーロッパ絵画の本流として拡散して行きます。

光による影響を受けない本質としての形状、さらに光によって様々に変化する色の集合体としての1色ではなく特質として持っている1色、つまり、陰影を排除したエッセンスとしての形と特質色としての色面による画面の構成。
こうした要素を高いレベルで実現していたものが、実は大胆な平面描写と明るい色面構成の錦絵版画であったのです。

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