錦絵一枚十六文

江戸錦絵版画摺師の最長老であった長尾直太郎さんが今年(2013年)の7月に他界されました。根っからの江戸っ子でその語り口調は軽快で、大正9年(1920年)のお生まれで、この道に入ったのが11歳だそうなので、80有余年現役で歩んで来られたことになります。

江戸時代の版画は浮世絵とか錦絵とか呼ばれますが、浮世絵は黒単色の墨線版画に後から彩色したもので、年代でいえば1765年までで、その後多色摺りが出来るようになって錦絵となり、その最初の絵師が鈴木春信(1725~70年)です。

長尾さんのお話では、1日200枚摺れる様になったら親方なのだそうで、摺ってゆくうちに板も微妙に寸法が狂うのでそれを見極めながら、紙の湿り具合も加減するということなのですが、いやいや多色摺りの200枚というのはこれは大変な数です。
摺り台の机は水平ではなくやや前に傾斜させてあって、その前に湿り具合を調整するために覆いをした紙が置かれていて、糊を敷き、顔料を塗り、紙をのせてバレンでこする。素人目にはバレンを軽く動かしているようにも見えるのですが、熟練の技が素人にそう思わせるだけであって、これは大変な重労働だというのが分かります。

版木で大量に刷れる錦絵になって絵の値段が下がって、寛政の時代(1789~1801年)で、錦絵が一枚十六文で、蕎麦も一杯十六文だったそうなので、庶民にとっては手頃な娯楽品でした。歌麿や葛飾北斎のものはもっと安かったそうです。

こうした錦絵の一部が様々な古紙とともに、海外交易輸出品の陶磁器の割れ防止緩衝材として使われ海外に渡り、ゴッホ(1853-90年)、モネ(1840-1926年)、ゴーギャン(1848-1903年)といった画家に影響を与えることになります。

明治になると錦絵の国内需要が減り、反面海外需要は高まって、いい作品が海外に流出してしまったそうで、長尾さんのお話では、ボストン美術館が8万枚、メトロポリタン美術館が6万枚、シカゴの博物館が6万枚、イギリスの美術館が4万枚程収蔵しているそうです。

江戸時代に庶民の娯楽だった錦絵が、西洋文明に傾倒してしまった明治という時代に海外へ流出し、いまや蕎麦一杯の値段で買えない押しも押されぬ芸術品になってしまいましたが、江戸時代の錦絵を語る視点は、「錦絵一枚十六文」というのが良さそうです。

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