鎖国時代の瀬戸内

2013年瀬戸内トリエンナーレ夏会期は、国内はもとより国際的な交流も活況な様です。
瀬戸内の開放的な空間が舞台なので、その進行は何かと天候に左右されやすく、このトリエンナーレならではの自然との共存と言えそうですが、今年のように日差しやら集中豪雨やらも度を超すと、これは困りものです。

瀬戸内地域は古代の律令国家の時代からすでに要衝の地で、その歴史は多岐に渡りますが、山間部・河川・沿岸部・陸路・海路の総合的な開発・発展を遂げたのは江戸時代で、豊臣秀吉は海賊禁止令を出して海路掌握を進め、これは基本的に江戸幕府にも受け継がれます。
江戸時代、民間レベルでの海外との交流は禁止されていたものの、幕府は特定国との国交を継続したので、江戸時代=鎖国=海外との交流のない時代、というイメージと実体とは異なります。
ヨーロッパとの窓口はそれまでのイスパニア・ポルトガルに代わってオランダのみとなりましたが、日本の資源や物品・美術・文化が海外へ渡るとともに、海外からは様々な物品・美術・文化が日本に入ってきました。

現代ではトリエンナーレのようなイベントには、思い立てば自由気ままに旅行に出かけられますが、江戸時代は基本的にはそういう自由はなく、民衆の行動範囲は日帰りが可能な範囲内に限られていて、中後期になって経済が発展し平和な時代が続く様になって、徐々に規制も緩和されて、社寺参拝という大義名分的なレジャー旅が一般化します。当時の西日本での人気スポットは、四国八十八か所・京都・奈良・伊勢・金毘羅・出雲大社といったところでしたから、人々は瀬戸内を往来したことでしょう。

江戸時代の瀬戸内に関わる国際交流の国家行事は朝鮮使節団の来日で、1607年から1811年まで12回派遣され、11回瀬戸内を通航しています。
使節団の接待は各地の大名に命じられ、長州藩・広島藩・福山藩・岡山藩が順次その間の航路案内・警備・宿泊施設の提供・食事や水の提供・三使(正使・副使・従事官)への饗応などを受け持ちました。
使節団の人数は400~500名で、三使や上上官などの接待の施設や食事の様子を見ると、各藩の財政負担は莫大であっただろうことがうかがえます。使節団のほかに、朝鮮国との外交窓口であった対馬藩の関係者1,500人程が同行したため、総勢で2,000人近い人数でした。
水先案内の船、連絡用の早船、水・食料を運ぶ船、ひき舟などが必要なため、藩士はもとより民間の船舶や人も動員され、1719年の岡山藩の記録では、藩の御用船105艘・民間船838艘の計943艘、3,700人余の人員が動員されたそうです。この応対は往路・帰路同様でした。
3,700人余の人員、というと今の感覚からみると少ないと思われるかも知れませんが、江戸時代というのは現代に比べ人口ははるかに少なく、当時の瀬戸内の人口はよくわかりませんが、1707年の岡山藩岡山城下の人数は53,539人(武家方22,904人、町方30,635人)だったそうで、政令指定都市である現在の岡山市との人口差は歴然です。

岡山藩での接待場所は牛窓でしたが、牛窓に伝わる「唐子踊り」は当時の名残とも言われます。

地域の文化や伝統は長い年月をかけて、その時代の政治、経済、国際情勢と密接に関係しながら築かれて来たものです。トリエンナーレと言いながら単発で終わってしまうこともある昨今のトリエンナーレ流行りの日本では、継続されるトリエンナーレの真価が問われます。

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