ルネサンスの胎動_《フィレンチェの富と美》

来年2015年3月に《ボッティチェッリとルネサンス---フィレンチェの富と美---》が開催されますが、ボッティチェッリ作品を中心に当時活躍した作家の絵画・彫刻・版画や資料などが展覧され、ボッティチェッリ作品は「受胎告知」・「聖母子と洗礼者聖ヨハネ」(日本初公開)など10点程が来日予定と発表されています。2015年3月21日~6月28日、bunnakmuraミュージアム。
本年2014年10月11日から開催される「ウフィツィ美術館展」(東京都美術館)に続き、ルネサンスの作品を堪能できそうです。

この展覧会は、2011~2012年にイタリアで開催された「Money and Beauty」をベースに再構成されるようなので、ルネサンスの原動力の経済的な背景にスポットを当てた展覧会になりそうです。

ルネサンスの幕開けは15世紀末で、西洋中世期の後期にあたります。
この西洋中世期は1000年に及ぶ長い時代でその変遷は多様ですが、極めて端的な言い方をすれば、領主とキリスト教教会を頂点としてその下に農民や商工業者がいるという封建的階級社会です。現在の西ヨーロッパ地域にあった当時の国の多くは封建制の農業国でした。一方、イタリアはアルプス北方の様々な民族国家の侵略を受け支配されますが、その支配者も戦乱の中で度々交代し長続きせず、それぞれの地域が群雄割拠の状態で、西ヨーロッパに比べ緩やかな封建社会であったと言えます。

11世紀から始まった十字軍の遠征によって結果的に交易路が発達し、また東方の文化に触れた農業国の封建領主たちは東方の高価な宝石、絹、象牙、香料などを買い集めるようになります。
東方との交易が促進されることによって、イタリアの海港都市のピサ、ヴェネチア、ジェノヴァ、ナポリなどは地中海貿易で栄えます。一方、内陸部にあったフィレンチェは交易都市として発達するとともに、さらに単なる交易に留まらず毛織物や皮工芸品などの加工製造業が盛んになります。アルノ川の岸にあって、もともと農産物の集積地として恵まれていたため、地理的に羊毛や皮革が入手しやすい立地にあり、また河川を利用した水車動力による大量生産が可能で、毛織物や皮工芸品を西ヨーロッパや東方諸国に輸出するようになり、また同時に金融業が盛んとなって、繁栄の道を歩みます。
当時最も目覚ましい繁栄を遂げた都市がフィレンチェです。

中世中期~後期にかけてのヨーロッパの都市規模について見てみると、11世紀~13世紀にかけて農業の生産性向上によって人口が大幅に増加しますが、農産物の供給が上限域になった14世紀には、人口増加は横ばいとなります。14世紀前半の気象異常による農作物の不作による飢餓の頻発によって人口は減少し、また14世紀中期のペスト(黒死病)によって、ヨーロッパ全域で総人口の25~30%が失われたとも言われ、人口が激減します。
当時の都市人口は、なかなかとハッキリしませんが、14世紀頃の推定値の一例は次の通りです。《イタリア》フィレンチェ=約8万人、ヴェネチア及びミラノ=10万人、パドヴァ=3万5千人、ジェノヴァ・ボローニャ・ナポリ・パレルモ=2万5千人。《フランス》パリ=8万人。これ以外の都市は1000人~1万人規模が大半であったと考えられています。現代の感覚でみれば、フィレンチェはそれほど大きな都市ではないのですが、当時としては大都市のひとつです。

都市経済が発達するに従って都市整備が進むので、教会や貴族の邸宅などに関わる建築・彫刻・絵画の需要が高くなってきますが、フィレンチェで巨額の投資を行ったのが「メディチ家」で、建築家や彫刻家、画家の活躍の場が創出されました。メディチ家は代々に渡り文化面への投資に熱心でした。

メディチ家の文化面への投資によって、現代の私たちはフィレンチェの町並みや天才画家達の作品に接することができるのですが、現代ではこうしたメディチ家のアクションを「メセナ活動」「文化振興」の好例のように取り上げますが、倒すか倒されるかというし烈な国がらの中で、実体は極めてシリアスなものであったろうと思います。
メディチ家はもともと名門ではなく、むしろ出自のハッキリしない家系で、ジョヴァンニの銀行事業の成功によって徐々に大きくなてゆきます。ところが、当時のヨーロッパで名門家系と認められる基準は、「国事への功績」「妻が名門出身」「資産がある」「学問や教養(特に古典)がある」というものであったので、メディチ家は「資産がある」こと以外は当てはまらず、ジョヴァンニは苦渋の思いをしたはずです。
ジョヴァンニは息子のコジモに学問を学ばせる環境を作っていますが、文化面への投資は、こうした教養コンプレックスへの反動が家訓のようになって代々の当主に引き継がれていったのではないかという気がします。
コジモはジョヴァンニの遺言に反して政治に関わり、共和政府の役職候補者をメディチ派にする多数工作をするのですが、世論を味方につけるというのは重要で、事業で膨大な利益をあげてなり上がってゆくなかで、反感を緩和するために見える形で町を美化して行くという投資事業は効果的です。コジモは新たなメディチ邸を建設するに当たり、世論の眼に配慮して目だたぬ様に外観を簡素にするよう努めたと言われます。

商工業の発達によって広い地域との交流が活発になり、一般市民層の経済力が充実するようになると、封建社会に歪みが生じ、もともと封建体制の弱かったイタリアにおいて自治市民都市が登場するようになります。人々の自立意識が高まるに従って、イタリアがゲルマン系民族に侵略される以前の民族本来の文化への関心が高まって、ローマやその源泉のギリシャ文化の研究が盛んになってゆきます。15世紀にビザンチン帝国(東ローマ帝国)がトルコに圧迫されるようになって、ビザンチンの古代学者がイタリアへ逃げ延びてくるに連れて、古代研究は益々盛んになります。

こうして、ルネサンスがフィレンチェで花開くのです。

 

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