古代ギリシャ美術の系譜

「特別展_古代ギリシャ美術‐時空を超えた旅‐」の東京展(東京国立博物館、2016)が終了し、順次、長崎展、神戸展と巡回されます。300点ほどの遺物を地中海一帯のきわめて広範囲な地域から集め、時系列に展示展開した分かりやすい構成で、これらをギリシャ現地で観ようとすると多大な時間と労力を要してしまいます。  公式サイト:http://www.greece2016-17.jp/
〉〉長崎展 Θ長崎県美術館 企画展示室/長崎県長崎市出島町2-1 Θ会期2016年10月14日(金)~12月11日(日)
〉〉神戸展 Θ神戸市立博物館/神戸市中央区京町24  Θ会期2016年12月23日(金・祝)~2017年4月2日(日)
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西洋では時代の変革の度に古代への回帰が起こっており、西洋美術の源泉をたどると、ローマ、果てはギリシャ美術に行き着きます。
アレキサンドロス大王首像/紀元前340‐330  ©TheAcropolisMuseum
古代ギリシャ美術と呼ばれるものの終わりの時代区分は、一般的にはプトレマイオス朝エジプトが滅亡した紀元前31年とされていますが、その始まりはとなると、広義に捉えるか狭義に捉えるかでなかなかと線引きは難しいところです。
遺物が発掘されている新石器時代は紀元前7000年頃から始まりますし、また文明と呼べる時代のエーゲ海文明は紀元前3000年頃から始まります。ギリシャ本土へのギリシャ民族の移住は紀元前2000頃から紀元前1000年頃まで続き、狭義にはギリシャ美術はこれ以降始まったともいえます。

エーゲ海はクレタ島の北に広がる小島の多い海域ですが、エジプトやメソポタミヤと同じく紀元前3000年頃から高度な文明が栄え始めます。この地域で栄えた文明は、クレタ島、キュクデラス諸島、ギリシャ本土、トロイアの各文明がありますが、その中で最も早く開け強大であったのがクレタ文明です。

紀元前2000年ごろからギリシャ本土に北方からインド・アーリア人種の一つのギリシャ民族アカイア人の侵入移住が始まりますが、比較的に和平的な侵入であたようです。アカイア人はすでに青銅器を有していたものの、美術的には低いレベルで、前1700年頃には当時最盛期であったクレタの文明がギリシャ本土に急速に広まり、この影響によって生じたクレタ化したギリシャ本土文明がミュケナイ文明です。
アカイア人は元来遊牧民でしたが、クレタから学んだ海軍力を強め、前1400年頃にクレタに攻め込み、エーゲ海の覇権を握ります。活発な植民地活動を進め、結果、小アジア一帯からロードス島、キュプロス島にいたる広大な範囲に美術が伝播してゆきました。

その後もギリシャ本土へは数部族の比較的平穏な移住が続きますが、紀元前1100年頃から始まったドリス人の侵入はそれまでと異なり、既存の文化に壊滅的な破壊をもたらす侵攻でした。これによってミュケナイ文化は灰に帰し、それまでの先住ギリシャ人たちは本土各地に飛散、あるいは小アジア西岸の植民地であったイオニア地方に逃避してしまうことになりました。
ドリス人によって初めてエーゲ海に鉄器がもたらされ、その圧勝は鉄器によるものでした。こうしてギリシャはエーゲ海を挟み、西のドリス文化圏と東のイオニア文化圏との東西ギリシャ文化圏に分かれ、前800年頃までの300年間近くギリシャ本土は文化的な不毛時代を迎えることになります。

紀元前800年頃になると、次第にドリス文化圏であるギリシャ本土に新たな形態の美術が現れてきます。それが幾何学文様陶器と呼ばれるものです。
クレタ、ミュケナイ時代の陶器にも文様が描かれていますが、陶器の形状への文様の融和性という面で見たとき、クレタは表現優先主義的な文様で、ミュケナイでは情緒的・叙述的な描写型文様、ドリスの幾何学文様陶器は陶器形状に合わせた数値的・合理的な構成型文様という見方ができます。
ドリス人が侵攻してくる以前のミュケナイ時代も、地中海のクレタ文明に大いに影響を受けたとはいえ、ギリシャの人々が育んだものであるので、ギリシャ美術と呼ぶことはできますが、ドリス人の侵攻によってその流れがリセットされ、その後地中海一帯の影響は受けつつも、新たに芽生えたギリシャ美術という見方をすれば、ギリシャ美術の始まりは紀元前800年頃という言い方ができます。
ギリシャ本土に新しい時代が芽生えたとき、東方のギリシャであるイオニア文化圏にはミュケナイ文化が根強く残っている状態であったため、これ以降は、ギリシャ本土ドリス文化圏の構成的・合理的な性格の美術とイオニア文化圏の描写的・叙述的性格の美術が相互にしのぎ合いを繰り広げ、互いに影響をしながらギリシャ美術が形成されてゆくことになります。

新しく芽生えたギリシャ美術は、アルカイック時代、クラシック時代、ヘレニスティック時代と続いてゆきます。

アルカイック中期の彫刻に見られるアルカイックスマイル。唇の両端を引き上げているのでそう呼ばれますが、この表情は傷ついた戦士像にも見られるもので、それは笑いの表現ではなく生きている人間を表す形式表現であったようです。
アルカイック後期に入って、彫刻に見られる変化は、このアルカイックスマイルが消滅したことと、立ち姿で片方の足に重心をおく遊脚の登場です。
当時、ペルシャ戦争が始まり、イオニア全土はペルシャ軍の前に屈服します。これに伴い、イオニア地域の美術工人がギリシャ本土に流れ込むことになりました。こうして、ドリス文化とイオニア文化が融合しながら、形式的表現が弱まり現実に即した忠実な描写が表れてきます。

クラシック時代に入ると、日本でもよく知られているパルテノン神殿が建立されます。一般的にはギリシャ美術=大理石像みたいなイメージがあるかも知れませんが、実は大理石像と同じくらい多くのブロンズ像(中は空洞)が造られていて、その技術はパルテノン神殿が作られた時代に普及します。
クラシック時代の半ば、ペロポンネソス戦争が始まりました。先のペルシャ戦争は敵国ペルシャと戦うギリシャ民族団結の戦いでしたが、この戦いは、アテナイとスパルタの同胞相まみえる戦いでした。
クラッシック時代後期、関心ごとが現実の戦争や出来事、過去の民族の栄光に向けられ、現実の人間の生活が思考のベースとなるにつれて、ギリシャ伝統の宗教であるオリンポス信仰が薄れてゆくようになり、神々は信仰の対象から人間の思いを託す美術のオブジェとなってしまいます。こうした背景の中で優美な表情の数々の彫像が製作されます。八頭身の比率もこの時代に現れます。

ギリシャ北方のマケドニアのアレクサンドロス大王は、ギリシャ全土を制服し、さらにペルシャ、エジプト、インド国境域まで覇権を広げます。ギリシャ文化はそれらの地域に美術工人とともに拡散して根付き、結果的にギリシャの存在感が相対的に薄まりギリシャは一地方的になって衰退の道を辿ります。
アレクサンドロス大王の征服によって、ギリシャに独裁君主制が始まり、国家の中心はオリンポスの神々ではなく、現実の人間である君主となります。アレクサンドロス大王の像は多く作られたようです。
この時代がヘレニスティック時代です。クラシック時代後期に現れた人間感情の表現がさらに推し進められます。日本でも有名な「ミロのヴィーナス」像はこの時代の造られたものです。
この時代はギリシャ的な崇高さがなくなり世俗的になって、見方によってはギリシャ美術の衰退期あるいは通俗期とも言えますが、美術が人間の情感をことさらに表現した歴史上最初の時代です。

歴史の変遷としては、ギリシャ美術に続く次世代はローマ美術となるのですが、イタリア半島にはギリシャ植民地(=大ギリシャ)が数多くあり、ローマはそこからギリシャ文化の影響を強く受けギリシャ美術に同化しており、ローマ美術は西方へ伝播したヘレニスティック美術という見方もできます。このため、ギリシャ美術とローマ美術の時代区分の線引きは難しいというかあまり意味がないのですが、一般的にはアウグストゥス帝が即位しローマ帝政時代が始まった紀元前31年です。
Greece/ギリシャ(英語)という名称は、ローマ人がつけたGraecia(優雅、優美)という言葉が元になっており、当時のローマ人にとっては、幾多の傑作を創り上げたギリシャ人は殊更に優美な存在であったことが伺えます。
ギリシャ人は自らをHellenes(ヘレネスの民)と呼び、アレクサンドロス大王の遠征でギリシャ美術が東方へ広く伝播した時代をヘレニスティック時代と呼ぶのはこのためです。


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