日本のポスター_明治・大正・昭和

今からおおよそ100年ほど前の、日本でポスターの制作が始まった明治後期から大正期にかけての広告ポスター7点の簡易展示用途の額装のご注文があって、改めてそれらを眺めてみると、明治後期の描き版による石版印刷と思われるものは、現代の印刷と異なり独特の風合いのある刷り上がりで味わい深く、また、初期の日本髪に艶やかな着物の美人画も時代とともにそのスタイルが変わり、技術面でも大正後期には写真製版が登場し、ポスターは産業の隆盛や風俗が反映された日本の産業広告文化遺産だと言えそうです。

大正期 アサヒビール

大正期 レート化粧品(平尾賛平商会)

ご依頼のポスターは7点の内6点が「菊正宗」「アサヒビール」「キリンビール」「サッポロビール」などの酒類のメーカーのものでしたが、当時、ポスター制作には多額の費用を要したため、ポスターを広告媒体として使用でき得たのは海運、百貨店、酒類の飲料メーカーなどの大企業に限定され、それでも年に1~2種しか制作されなかったようです。
2014年NHKの朝ドラ「マッサン」の影響で「赤玉ポートワイン」のポスター(大正11年、1922年)がスポットライトを浴びましたが、結果的にみると日本の広告文化の一翼を飲料メーカーが担っていたことになります。この「赤玉ポートワイン」のポスターは、写真製版で日本で初めてポスターにヌード写真を取り入れたものでした。


ご依頼のポスターの内2枚は「菊正宗」の広告で、サイズは775x1050mm前後で当時としては最も大きなサイズのひとつです。他5枚は「アサヒビール」や「サッポロビール」などの広告で、サイズは540x840mm前後(現在の新聞紙見開き大)です。いずれも吊り下げ用の金具が上下についた状態であったので制作当時の寸法と思われます。当時のポスター用の用紙原判は四六判(788x1091mm)と菊判(636x939mm)で、多用されたのは菊判であったようです。


上のポスターは、ご依頼者からご厚意でいただいた復刻版(1935年、昭和10年版)です。
サッポロビールのホームページの《ビジュアルライブラリー》にサッポロビールのポスターが初期の明治期以降から年代別に掲載されていますので、その変遷をご覧ください。


サッポロビールHPに掲示されているポスター画像は、日本的なやわらかさが失せ気味な重々しい感じの額装になっていますが、ポスターが実際に使用された当時は額に入れられていたわけではなく、当時の店頭風景を見ると、山積みされた酒瓶の脇に無造作な感じで吊り下げられています。そうした利用をされていた消耗品であったはずのポスターが現在までよく残っていたものだと感心するばかりです。
ビール業界は熾烈な販売競争のなか、明治39年(1906年)3月に札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒が合併して日本麦酒株式会社が設立され、旧3社の銘柄「サッポロ」「エビス」「アサヒ」はそのままで新会社の日本麦酒株式会社から発売されるようになりました。ポスターの中に複数銘柄が並んでいるのはそのためです。

一方、キリンビールは、明治41年(1907年)に麒麟麦酒株式会社が設立され、麒麟ブランドのビールを製造していたジャパン・ブルーワリー・カンパニーから事業が継承されました。


明治期に西欧から日本に持ち込まれたポスターという媒体は、その後急速に印刷の技術革新が進みますが、触発を受けたであろう19世紀後半の西欧先進国フランスは、アルフォンス・ミュシャが活躍していた時代です。

1897年 | ムーズビール| 1045x1545mm | アルフォンス・ミュシャ
1896年 | フェーヴルユーテル ビスケット | 352x521mm | アルフォンス・ミュシャ


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