印象派の時代の写真

第1回印象派展(1874年)は、旧態然としたサロン画壇に満足しない画家達が独自に開いた展覧会で、この時の正式な展覧会の名前は「画家、彫刻家、版画家の匿名作家協会展覧会」でした。「印象派」という呼称は、美術記者の批評からでてきた嘲笑的な表現でしたが、第3回展からその表現が採用され「印象派展」となります。
フランスのキャプシーノ大通り35番地、そこにあるナダール写真スタジオの2階、ここが第1回展の会場でした。
写真は記録や肖像写真の分野でその領域を拡大しつつあった当時の先端テクノロジーで、ある意味画家達の職域を多かれ少なかれ侵食していたわけで、印象派も新興勢力という意味では共通項はあるものの、何とも微妙な感じです。
当時の写真はどんなものだったか、現存オリジナルを見ないと実体はハッキリしませんが、いろいろなデータからそのレベルを伺うことができます。
印象派展の1874年という年代がピンと来ないという方は、日本で比較的よく知られている坂本龍馬の写真が1866~67年頃長崎で撮られたものとされているので、これを年代基準にしておいていただくとよいかと思います。

フランスのナダール写真スタジオのナダールは、当時のフランスでは名の知れた写真家で、多くの文化人、軍人、女優、画家などの肖像を撮影しています。日本との関わりで見れば、1862年の第1回遣欧使節団、1864年の第2回遣欧使節団の一行の写真もナダールによって撮られています。ナダールのフルネームは、ガスパール=フェリックス・トゥールナション(Gaspard-Felix Tournachon)、1820年生-1910年没。息子はポール・トゥールナションですが、ポール・ナダールと名乗っている場合があります

ナダールの仕事を数枚ピックアップして、当時の写真の様子を見てみます。

※掲載の写真はすべて収蔵美術館の著作権をクリアーしたものですが、当サイトからの写真並びに記述の転載は、ご遠慮下さい。

=/=/= Self-Portrait as an Aeronaut(ナダールのセルフポートレート)1863年
気球研究家でもあったナダールですが、乗っているカゴは少々窮屈そうながら、背景は海に見立てた背景画がセットされているようで、気球のプロモーション写真といったところでしょうか。写真が単に前に立った人を写すという道具を越えて、すでに見せ方を訴求する商業写真の領域に入っていることがわかります。気球に乗った高度からのパリの俯瞰撮影も行っています。#アルビュメンプリント。

=/=/= Sarah Bernlardt (サラ ベルナール)1864年頃
後に大舞台女優となるサラ・ベルナール20歳の頃で、ベルナールの長い輝かしい活躍のスタートの頃です。当時ナダールは、店はスタッフに任せて気球に凝っていた頃ですが、この撮影は自ら行っています。ナダールは、視線を彼女の繊細な顔に集中させるべく、左の肩を露出させ、ベルベットの大きなスイーブで彼女の細い体を包み込んでいます。ハイライトを利かせ、すでに撮影に照明の工夫が見られます。
この写真はベルナールの最初のプロ―モーション写真と言われていますが、掲載の写真は、当時撮影された原板を1924年に息子のポール・ナダールが再プリントしたものです。#ゼラチンシルバープリント。実際のトーンの具合は、やはりオリジナルプリントを見ないとわかりませんが、トーンの柔らかい感じは、技法が現在のものと異なっている可能性もありそうです。

1895年、サラ・ベルナールの舞台ポスター「ジスモンダ」を手掛けたアルフォンス・ミュシャは、それがパリデビューのきっかけとなり、アールヌーボーを代表する作家の1人になります。

=/=/= George Sand (ジョージ・サンド)1860-1869年
フランスの女流作家で、作曲家のフレデリック・ショパンと一時同棲したこともある女性で、友人のナダールは1860年代にサンドを度々撮影しています。服のサテンのボリューム感と髪の絹の風合いが質感があって、輝くスカートの三角形の広がりと髪の三角形の広がりが、さらにボタンの稜線が符合して、表情に収束してゆきます。単にシャッターを押して写すだけに留まっていないレベルの撮影です。#アルビュメンプリント。

=/=/= Sara Bernlardt as phedre in Racine's "Phedre"(サラ・ぺルナール フェードル役)1874年頃
キャビネットサイズのカード用のスタジオセットでの撮影。すでに宣伝用のカードがスタジオで撮影されているというのはまさに商業写真の世界です。#アルビュメンシルバープリント。

※掲載の写真はすべて収蔵美術館の著作権をクリアーしたものですが、当サイトからの写真並びに記述の転載は、ご遠慮下さい。

コメント